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無 功 徳(むくどく)

無功徳という禅語は、禅宗の初祖とも称される菩提達磨(ぼだい・だるま)の言葉である。 南インドの香至国(こうしこく)という国の第3王子として生まれた達磨は、やがて出家をして僧となった。そして後年、仏法を説き広めるためにインドを発って中国へと向かう。 苦難の末に中国にたどりついた達磨は、梁(りょう)の武帝(ぶてい)と会って仏法について話を交わすのだが、その時の会話のなかで達磨が口にしたのが、この無功徳という一語。

武帝は仏心天子と呼ばれるほど厚く仏教に帰依していた皇帝であった。多くの寺院を建立し、多くの経文を写させて複製し、自ら『涅槃経(ねはんぎょう)』という経典について講義をするほどの見識も持ち合わせていたという。

だから武帝は達磨と出会った際、こう問いかけた。

「私はこれまでに多くの仏塔を建立し、経文を写し、多くの人を僧侶にしてきた。ほかにも沢山のことをした。これら仏教のためになる行いをしてきたことに対し、どのような功徳があるだろうか?」 武帝にしてみれば、自分ほど仏教のために尽力した人間はいないという自負があったに違いない。だから、さぞかし素晴らしい功徳がもたらされるものと思い、達磨に問いかけたのだ。 しかしこの問いに対する達磨の答えは、まったく武帝の意に反するものだった。

無功徳」 つまり、達磨は「何の功徳もない」と言い放ったのである。

「なにっ!? 何の功徳もないだと! なぜだ?」 「寺を建てる。経典を写す。僧侶として出家させる。それらの行いによって功徳を得ようとするのは、世俗の成果を求めているにすぎないからです」 「では、貴僧のいう功徳とは何なのだ!?」 「損得にかかわることのない浄らかなものです」

 

なぜ無功徳なのか

何か善いことをして、その見返りに何かを得たとする。 善いことをした功徳は、その得たもの、あるいはそれを得ることを指すかといえば、そうとは限らない。 たとえば人助けをしたのなら、助かった人が現にいる。助かった、という結果がすでに1つの功徳であるし、助けられた人が感謝の思いを抱くことも、大きな功徳になるだろう。 助けた人物に返ってくるものが功徳のすべてなのではない。 その行為によって生じた諸々、それら生じたすべてのものが功徳の結果であり、功徳そのものでもあるのだ。 武帝は寺院を建立したり写経をした行為の見返りのような意味合いで、特別な功徳が自分の身に与えられるのではと思ったのかもしれないが、そうではないことを達磨は伝えたのであった。

 

動物愛護にしても、同じような事が言えるのではないでしょうか。純粋に野良猫さんの子供を救って、新しい飼い主を見つけてやるのが功徳であって、その後他人様からの称賛を得るか得ないかは、関係ないと思います。

他人様からの称賛が目的であり、野良猫さんの子供を救うのが手段だったら、悲しいことである。

先日、行方不明になった子供さんを発見した、ボランティアの尾畠さんの座右の銘は、以前ブログにも書いた「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」だそうで実に素晴らしいです。

 

30年 9月 10日    院長 藤田 泰志