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老兵は死なずただ消え去るのみ。

2015年の4月、満開のさくらに、眩しいほどの季節感を覚える中で、愛護団体様のご協力で「さくらねこ動物病院」を立ち上げ、気持ちも新たに取り組ませて頂いた仕事は、それまでの30数年間に亘る獣医師人生で培った見識とスキルを活かすことができ、人と動物の絆を大事に、そして双方の共存が叶い社会的に大きな意義を見出せる充実満足感の得られる内容でした。

 

一期一会から縁(えにし)が結ばれ、手掛ける仕事の大切さを理解いただき、機会ある毎に見守ってきてくださった多くの方々の思いには、動物と一緒の「まち」「くらし」を希求した地域再考への願いが強く滲んでいて、その熱意と真摯さに圧されて引き受けた仕事でした。

 

2018年の春、一心に育んできた「さくらねこ動物病院」の事業継承・譲渡を川畑先生に望まれたのを契機に、その仕事人生を手仕舞いし、関わり方を変えてフリーランスとしてわが獣医師人生の第二幕をスタートさせました。

 

ライフスタイルを変えて、これまでとは異なる楽しみ方を見つけて日々を味わい尽くしたいとの思いに駆られ、身体能力、認知能力の確かな内に家族で楽しみ、社会的なつながりを大事に生きることをこそ優先しようと思い立ったに拘わらず・・・・、世はままならないのが常で、第二の人生をいかに豊かに生きるかを考える暇も与えられず、寄せられた求めの強固さに抗しきれずに、圧し流されるように新しい日常に溶け込み務めた「さくらねこ動物病院」の仕事はあっという間に一年半が経過してこの間を大過なく勤め果(おお)せる事ができ、いま感無量の感慨を抱けるのも皆さんのお陰です。

 

「さくらねこ動物病院」は、愛護団体の皆様、市井の猫愛好家様のご支援と後ろ盾を得て運営が出来ています、心から感謝申し上げます。

 

 

私、藤田泰志は契約満了の期、2020年2月15日を持ちまして職を辞することになり、「さくらねこ動物病院」の今後を 川畑先生に委ねました。どうか、これからも引き続き、「さくらねこ動物病院」を暖かく見守って下さい、宜しくお願い致します

川畑先生は優秀で技量も確かなものをお持ちですが、これからの継続、発展には多くの方々の気持と知力、そして手が必要です。

成功哲学の祖、ナポレオン・ヒルは、「マスターマインドの協力なしで、偉大な力を発揮し得た人はいない」と言っています。マスターマインドとは、ある明確な目標を達成するために、知識や脳力を結集し、完全な調和の精神を持って働く、協力者のグループのことです。

 

どうか、これからも引き続き、「さくらねこ動物病院」を暖かく見守って下さい、宜しくお願い致します。

なお今後のブログに関しては、新年度より愛護団体ピースキャットさんのHPに掲載させて頂きたいと思います。

 

令和 2年 1月吉日  獣医師 藤田 泰志

 

 

「アルコールは発がん物質」は本当だった。

かねてからアルコールとがんの関係性については、さまざまな研究結果や論文等が発表されていましたが、このほど「米国臨床腫瘍学会」という医学界でも権威ある学会がアルコールは発がん物質である」として飲酒の見直しを提言、大きな話題となっています。がん予防のためには完全に禁酒するしかないのでしょうか。

 

アルコールに発がん作用があることは、30年ほど前から、発がん物質についての研究を行っている権威ある国際機関が報告しています。その国際機関は、アルコールを人間に対する確実な発がん物質と認定しています。

 

しかしながら、この事実は、多くの医学会からほとんど無視されていました。そのために、一般の人々のなかで、その事実が知るひとは少なかったのです。そのような背景があったので、米国臨床腫瘍学会の提言は画期的なものでした。欧米の多くのメディアはこのことを取り上げましたが、日本のメディアで取り上げるところはあまりありませんでした。

 

英国のがん研究所は、アルコールとの関係が特に指摘されているがんの種類として、口腔がん、咽頭がん、食道がん、乳がん、肝臓がん、大腸がんを挙げている。そのリスクは、ワインやビール、蒸留酒などアルコールの種類とは無関係で、飲む量についても

がんに関しては安全な飲酒量などない

と断言している。ただし、英国には政府が定めた飲酒のガイドラインがあり、ここで規定している量以下であればリスクは低くなる、とがん研究所は述べている。

 

アルコールが発がんをきたす機序として、その代謝物であるセトアルデヒドの作用

が疑われています。日本人ではアセトアルデヒドを分解する酵素の活性が弱いひとがいますが、そのような人々では食道がんなどのリスクが高くなっています。お酒を飲んだら顔がすぐに紅くなる人は注意しましょう。また、そのような人にはお酒を無理に勧めないようにしましょう。

 

私の若い頃は乳がんになった方は還暦過ぎた方が多かったような気がしますが、最近低年齢化しているのは、飲酒が関係しているのでしょうか?

 

年末年始にかけてアルコールを摂取する機会が増加しますが、深酒は絶対されない方が良いと思います。

 

令和元年 12月10日 顧問  藤田 泰志

こんな人もいる

 

人が自分に何かをしたり言ったりしてイライラした時、「こんな人もいる」と心の中で言ってみてください。

たとえば、人から頭にくる一言を浴びせられた時、「どうして自分がこんなことを言われなければいけないんだ」「信じられない」「なんだこの人は」「許せない」のような思いがあると、怒りや悲しみが強くなり、自分をコントロールするのが難しくなってしまいます。そんな時、「こんな人もいる」と考える(心の中で言う)ことが、自分を取り戻す第一歩になります。

ふだんは悪い人ではない場合には、「(この人にも)こういうことはある」と考えればいいでしょう。「なんだこの人は」と思うのと「こんな人もいる」「こういうこともある」と思うのでは、感じ方がずいぶん違います。そういう人に対してどう接したらいいかも考えやすくなるでしょう。

 

世の中にはいろんな人がいます。無神経な人、マナーが悪い人、口が悪い人、思いやりのない人、意地悪な人、・・・。

世の中にはイヤな人もいる」というのは事実なのです。
「許せない」という気持ちはよくわかります。許す必要はありません。でも、「こういう人もいる」という事実・現実に逆らってもしかたがありません。それを受け入れることは自分(の心の平穏)のためです。

イライラした相手が一時的な関わりの人や通りすがりの人だとしたら、そんなどうでもいい人のためにイライラするのはもったいないのではないでしょうか。

世の中にはこんな人もいる」と考えて軽く済ましたほうがいいでしょう。

 

自分が生活する中で必然的に接しなければならない相手の場合には、「この人はこういう人」ということをわかった上で、それなりにつきあえばいいでしょう。歳とか立場とかは関係ありません。むしろ目上の人の場合に、やっかいなことが多いような気がします。

性格の悪い人もいるし、自分とは合わない人もいます。そういう人に対して「こうあるべきだ」というような思いがあるから、イライラしてしまうのではないでしょうか。自分がその人を変えることは極めて困難です。

人が変わることを期待するよりも、その人に対する自分の考え方を変えたほうがいいのではないでしょうか。「こんな人もいる」と考えてしまったほうが容易だし、ラクだと思うのです。

こんな人もいる」という考え方を一度身につければ、多くの相手に使えて、イライラしないために役立ちます。「世の中にはイヤな人もいっぱいいる」のですから。(いい人はもっといっぱいいることもお忘れなく)

 

令和 元年 11月 10日 顧問 藤田 泰志

 

最後だとわかっていたなら

あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら わたしは もっとちゃんとカバーをかけて

神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう 。

 

あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら わたしは あなたを抱きしめて キスをして

そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう 。

 

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら

わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう 。

 

あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど 最後だとわかっていたなら

一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と わたしは 伝えただろう 。

 

たしかにいつも明日はやってくる でも、もしそれがわたしの勘違いで

今日で全てが終わるのだとしたら、 わたしは 今日 どんなにあなたを愛しているか 伝えたい 。

 

そして わたしたちは 忘れないようにしたい 。

 

若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも約束されていないのだということを 。

 

愛する人を抱きしめられるのは 今日が最後になるかもしれないことを。

 

 

この詩はノーマ・コ―ネット・マレックの「最後だとわかっていたら(Tomorrow Never Comes)」から抜粋したもので、1989年に10歳で亡くなった息子サムエルに捧げた詩です。

禅宗に『而今(にこん)』という禅語があります、命の真実は『』にしかないことを説いた言葉です。私たちは『』この瞬間にしか生きることはできません。昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。明日生きているという保証もないのです。であるからこそ、『』という時期を大切に生きることが大事なのです。「最後だとわかっていたら」はまさにこの事を詠った詩なのですね。

高齢になり、朝目覚めた時に、「今日も生きていて良かった」と思うのは私だけでしょうか?

 

令和元年10月10日 顧問 藤田 泰志

死んでもともと

 

 

今から30数年前の若かりし頃、「人間は何故不公平なのだろう。」と思い悩む日がありました。その時鎌倉にある禅宗寺院報国寺の住職。(出版当時)   臨済宗建長寺派の禅僧でゴルフ、野球、ボウリングなど趣味も多彩で破天荒な和尚さんの著書「死んでもともと」という本に巡り会いました。

その時のうろ覚えの文章を抜粋して書いてみます。

 

人間は何のために生きるのですか?(自殺願望の女の子より。)

お前さん!人間は何の為に生きるかって言ったって、 人間はそもそも生まれて来る時に、意識して考えて生まれて来た者はないよ。 何の為にでもなく、生まされて来たというべきかな。 生まれて来たのだから、生きて行くんだよ。 そして生きて行くだけで即、それが「」でもあるんだよ。 あんたが生きて行くことが、両親始め大勢の人の支えになっているんだよ。 あんたが死ねば、社会的に大なり小なりの穴があくのだよ。 そのポッカリ開いた穴を誰かがふさがねばならないんだよ

 

死んだらどうなるの?極楽浄土へ行けるのですか?

わしも死んだ事がないからわからん。

 

ある講演会で

お婆さんたちよ、直きに死ぬのだから、やりたいことをやれ!」と絶叫したことがある。聞いた人も唖然としていたが、数分後に万雷の如き拍手が起こった。皆さんも、「俺は直きに死ぬ、直きに死ぬ」とお念仏のように常に唱えて暮らすことだ。そうすれば、下らないことにかまけておられなくなる。死にきった人は物を欲しがらない、死にきった人は物を正しく見る、死にきった人はこわがらない、死にきった人は物に動じない。大死一番、大活現前して、無碍にして自在な生活ができる。

 

悩める若者に

自分がいかにあるべきかということを、他人に尋ねる馬鹿があるか、 自分のことは自分で処理しろ。

自分で地獄を作り、鬼をつくり、自分で落ちこんで苦しむものなのだ。 自分さえ本当の自己にめざめて救われれば、他人も一切のものが救われるということだ。 あの人がいなくなれば私は幸せになる。 あの人があんなことをいわなければ私は幸せになる、などと想うことが間違いで、 あの人ではない、他人ではない、まず自分自身が目覚めねばならない。

因果応報、原因があるから結果がある。蒔かぬ種は生えないのだ。 釈迦の最後の言葉は、「依頼心を捨てて、自らを灯明とせよ」であった。 人に頼ることなく、自分に頼ればいい。

結局、「人生とは自分が自分を生かすことである。」 

 

禅について 

誰しも一度は死ぬ。一度死んだら二度死ぬことはない。それだったら、今のうちに死んでおこう。そうすれば、あとは気楽だ。死んでいる者に生死はない。こういうことは、一通り修業をした者なら、誰も体得することであるから不思議なものだ。

とっくみあいの喧嘩をしても負けないのが禅だ。地獄へ行っても、鬼どもを投げ飛ばして、家来にしてこき使うのが禅である。神も仏もあるものか。勝手気ままにやりたい放題のことをして、戦って戦い抜いて悔いのない一生を過ごすんだという意気に燃えるのが禅である。

地獄に行っても鬼どもを投げ飛ばして家来にしてこき使う。まさに破天荒な禅の解釈で、驚嘆したのを覚えています。

 

令和 元年 9月10日 顧問 藤田泰志

自己愛と隣人愛

あなたのまわりにボランティアに参加されている方、もしくはボランティアに参加された経験がありますか?

ボランティアは以前に比べて、かなり身近になってきました。 自然災害が発生したときに被災した人へ食事を提供したり、復旧活動に参加するといった緊急かつ、大規模なものがある一方、日常の生活のなかで、お年寄りの話し相手になったり、子供たちに読み聞かせをしたりといった、身近なものもあります。

ボランティアはとても素晴らしいことです。 しかしボランティアにも「自己愛」が潜む可能性があります。

「なぜボランティアをするのか」という動機が大切なのです。

あなたがボランティアをしたとき、なぜしたのかを思い出してください。

 

困っている人を助けたかった。

自分ができることを役立てたかった。

気がついていたら、やっていた。

いいですね。素晴しいです。 まさに「隣人愛」です。

 

自分が良いことをしているのを人に見てもらいたかった。

野良猫のためにと言いながら、野良猫の世話をして褒められたかった。

これらの動機は「自己愛」と思われますね。

なぜなら、ボランティアを通して、自己利益を求めているからです。

 

では、こんな経験はありませんか?  

手を差し伸べたのに「ありがとう」と言ってくれなかった人がいて、腹がたった。寂しかった。

ボランティアの経験をほかの人に話したが、反応が薄く、興味を持ってもらえなくて、残念だった。

もしこれらの感情が湧いてしまったのなら、残念ながらそのボランティアは「自己愛」で行ったことになります。 ボランティアは「無償の愛」で行うものであって、そもそも感謝してもらうことを期待してはいけません。もし感謝してもらえたら、それは想定外の喜びです。

そして、ボランティアは人に共感してもらうために行うためのものではありません。自分が突き動かされて行うものです。また、その行為を人に話すべきではありません。

自己愛」は本当に私たちの身近に潜んでいて、「隣人愛」の仮面をかぶっていることすらあるのです。

 

 

令和元年 8月 10日  顧問 藤田 泰志

人間には死の予感があるらしい。

ある密教僧のブログを見つけました。やはり高齢になると死についての考えが巡ります。

 

人間は、生物であり、自然の一部ですから、生があれば必ず死が訪れます。そして、不思議なことに死の予知というか予感が必ずございます。

死が近づいてくると、なぜか無性に寂しくなるのです。自分でもなぜこんなに寂しいのか思いあたる理由もないのに、とても寂しくなります。

私は、今まで多くの人の死に立ち会ってきました。間もなく亡くなるだろうという人に何度もお会いしています。

亡くなる一ヶ月くらい前から盛んに寂しい、誰か会いに来て欲しい。と言いはじめることが多いのであります。 

死を間近にしたときの寂しさは、心の奥底から染み出してくる寂しさなのです。永遠に肉親や友達に会えなくなるような寂しさです。地中の中に引きずり込まれていくような、そのようなつかみどころのない寂寥感といえるでしょうか。寂しいということをいいはじめたら、もう長くはないと思います。

 

死が近い人は、魂が自分の寿命が尽きることを感じて、会いたい人に暇乞いに行かれることもよくあるのです。

他にも死の兆候はこんなものがあります。疎遠になっていた友人に無性に会いたくなるとか、今までしたことのなかったことを突然し始めるのも兆候の一つです。これは、長患いの末、というより突然亡くなるケースによく見られます。

たとえば、今まで料理などしなかったご主人が頼みもしないのに料理を作って出した。

折り合いの悪いお嫁さんに、今までプレゼントをしたことがないのに、お世話になったと言葉を添えてプレゼントしたなど。これは実際にあった話でありますが、その三日後、交通事故であっけなく亡くなってしまったそうです。

 

そういえば私事ですが、長兄と同居していた気丈な母が皆働きに出て誰もいなくなったら、すぐ姉に電話して「寂しい、寂しい」と言ってたのを思い出しますが、当時はこんな事知りませんでしたので、もう少し何かしてやれたのかなと思うと残念です。私の兄は一昨年の1月に急逝しましたが、前年の12月に電話してきて、「皆集まった時の正月の挨拶をお前にしてほしい。」と初めて言ってきましたが、後から考えると、不思議な事でした。

 

 

       元年 7月10日  顧問  藤田泰志

 

 

考えさせられる問題

ノルウェーの病院に勤務していたビルギッタ・カレスタッドさんは2月、友人たちと休暇で訪れていたフィリピンでオートバイに乗っていた際、道端で「寄る辺のない」子犬を発見、助けてあげたのに亡くなりました。

カレスタッドさんの遺族は9日、「ビルギッタは子犬をかごの中に入れて連れ帰った。体を洗ってあげ、世話をすると、うれしいことに子犬は回復し始めた。滞在先のリゾート施設の庭で子犬と一緒に遊んでいた」と説明。「その後しばらくすると、子犬は他の子犬がそうするように、ビルギッタたちをかもうとし始め、一緒に遊んでいる最中に彼女たちの指をかんだ」と述べた。

 

カレスタッドさんは帰国後、体調を崩し、自身が勤める病院で集中治療を受けた。だが6日夜、この病院でカレスタッドさんは息を引き取ったという。 遺族によると、カレスタッドさんと友人らのグループは誰も狂犬病の予防ワクチンを接種していなかった。 遺族はまた、「私たちの愛するビルギッタは動物が大好きだった。私たちが恐れていることは、ビルギッタのような優しい心を持つ人に、こうしたことが起こり得ることだ」と話している。

 

私も小学校の時に道徳の時間で「困った人がいたら、助けてあげなさい。」「お年寄りには親切にしてあげなさい。」と耳にタコができるくらい聞きました。もし、カレスタッドさんが、動物嫌いだったらこういう結果にはならなかったと思いますが、子犬を助けてあげたのは正しいと思います。

しかし、彼女はフィリピンが狂犬病発生地域と言う事を知らずに狂犬病のワクチンを打っていなかった事が敗因でしたが、こういう事は別の件でも日常茶飯事に起きています。

例えば「友達がお金に困っているから、信用して保証人になったら蒸発して不良債権となり競売で家を売らざるを得なかった。」「他人の子供が溺れていたので、飛び込んで助けに行ったら、そのまま行方不明になった」「野良猫が寒そうにしていたので家に入れてやったら、ドンドン増えて多頭飼育崩壊に至った

笑い話ですが「おじいさんが道に迷っていたので、若い女の子が親切に案内したら、ナンパされた。」というのもありました。

これらは、すべて良い事をされたのだと思います。しかし、決断するのに何かが足りなかったような気がするのは私だけでしょうか?

 

君子危うきに近寄らず」という諺があります。立派な人物は危ないところに近づかないということを言っています。教養高い人格者は言動を慎むもので、自ら危ないところに近づいて災いを招くようなことはしないのです。君子でなくても、見るからに危ないところへ近づきたがる人は、それほど多くありません。君子が君子たる所以は、「普通の人にはわからない危険を察知できる」ところです。

君子たるものは、「いかなる時も感情や欲望に流されず、冷静に後先や周囲を見通す洞察力と的確な判断力を発揮できる」ことが期待されます。君子が持つべき資質である指導力の源泉を表したものが、「君子危うきに近寄らず」です。

 

果たして私もそれが実践できるでしょうか?と言われると自信がありませんね。

 

 

令和元年 6月10日 顧問  藤田 泰志

 

デキる人は「自分の目標を言わない」

令和元年を迎えおめでたいですね、私も昭和、平成、令和と生かされて感謝しております。昭和から平成に変わった時はパソコンもなく、煩わしい事はなかったのですが、今回は煩わしく次回ワクチン予定日等を、例えば平成31年5月を令和元年5月と表示させたいのでマイクロソフトに電話してやっとできるようになりました。西暦で表示させるのは簡単なのですがね。。。。さくらねこ動物病院のソフトはエクセルで出来たフリーソフトですから、作者と連絡したりして細かい点は自分でしないといけませんので、認知症予防に最適です。

 

さて、脳科学者の茂木健一郎氏は「できる人」と、「できない人」を比較したときに、見分けるための1つの指標になることがあるとおっしゃっている。

できる人」の特徴。それはずばり、自分の目標をやたらと人に言わないこと。

逆に言えば、「私はこれを目指しています」「ぼくはこんなことをしたい」「私はダイエットして5kℊ痩せます」と言い続けている人は、結果が出ていないことが多いのである。

 

なぜ、「できる人」と「できない人」の間に差が生まれるのか? これは学生さんや若い社会人に多いのだけれども、どうやら、目標を言うことで、すでに「脳が錯覚して満足してしまっている」ようなのだ。しばしば、「ぼくはビッグになります」と言う人がいるけれども、そのような人が実際にビッグになったのを見たことがない。

逆に、何も言わずにコツコツと努力をしている人は、しばらく会わない間に大きく成長して、「大化け」していることもある。

個人だけではない、会社のような組織も、やたらと目標を掲げるよりは、静かにそして地道に仕事をしているほうが、結果として伸びている。

大きなことを言わずに頑張るのは、日本人の美徳のように思っている人たちもいるかもしれない。一方、アメリカには大言壮語する人が多いという印象もあるかもしれないが、実際にはそうではない。

例えば、今や世間で熱い注目を浴びる「ビットコイン」などの仮想通貨の元となった「ブロックチェーン」技術の考え方は、ネット上に「サトシ・ナカモト」の名前でいきなり発表された。

グーグルをはじめとする企業による自動運転技術の開発も、「こういうものを作ります」とPRするよりは、出来上がったものを突然動画で公開するのが主流のスタイルになっている。

テクノロジーは、「作ります」と言っていても仕方がない。実装して初めて価値がわかる。最先端の技術に関わる人たちの間では、「目標」をあれこれと言うのはダサく、とにかく作り、公開してナンボという風潮があるようだ。

できる人」になりたかったら、目標はぐっとのみ込んで、胸の中で温めておくのがいいらしい。

 

   令和元年 5月 10日  顧問 藤田泰志

 

老 少 不 定(ろうしょうふじょう)

ある裕福な商人が、孫ができたお祝いに、何か目出度い言葉を書いて欲しい、家宝にするからと、一休禅師のもとを訪れました。

こころよく引き受けた一休禅師の書いた言葉は、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」という言葉でした。目出度い言葉をお願いした商人は、カンカンに怒って、「死ぬとはどうゆうことだ」と一休禅師を問いただします。すると一休禅師は「では、あなたは、孫死ぬ、子死ぬ、親死ぬの方がいいのですか」と聞き返したそうです。ますます怒って帰ろうとする商人に、一休禅師は続けて「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。これほど目出度いことがあろうか、これが逆になったらどうする」と、さとしたそうです。

 

現実、順番通りに死ぬことができるかどうかわかりません。世の中には子供の葬式を出してやらなければならなかった人もいます。それこそ孫を見送らなければならなかった人もいます。そもそも、この順番というもの事態が、最初から無いのです。

順番通りにいかなかった時に、その遺族は不幸という考えも、死を不幸な事として捉えていることに問題があるのです。家族や最愛の人が亡くなるということは、大きな悲しみです。しかし、死とはごく自然なことであり、生きているということは、必ず死んでいかなければならないということなのです。

 

 だからこそ、今生きている人生を精一杯生き抜いて欲しいという願いが、一休禅師の言葉の中に込められていたのだと思います。私達は、生きている時間に対してあまりにも無頓着で、死をまるで遠い未来の事ように思って生きていませんか。本当にめでたいのは、今私が生きているこの一瞬一瞬。それに気付くことができるのが、仏法との出会いだそうです。

 

動物においても、「親より子供が先に亡くなった」という言葉を飼い主さんからかなり聞きましたが、「中には生まれてすぐ亡くなる子もいるのですよ」と慰めてきました。それでも悲しいのが動物の死ですよね。「老少不定」と言う諺を噛みしめて頑張るしかしかありませんね。

 

2019年 4月 10日  顧問 藤田 泰志